PIECES

或る男の絵 古川満春

第一章 「自分への存在証明」

齢は四十四を数える。風貌は、肉が多めだ。ようやくこの年になり、手に入れた数少ないものは、安いが安定したパートタイム労働とよく走る右腕・・・。よく走るとは?
絵を描く者にとって、特に線を使う者にはよく走るという言葉は重要な意味を持つ。
他にはこの年になってもご健在の両親と嫁いでそれなりにやってる姉と甥。
私はこの安定を手に入れるまで、又八のように小さい障害物に躓いた。振り返ってみようと思う。

(きっかけ)
私が生まれてから一番最初に熱中していた事は粘土細工だった。同じ年頃の友達よりも手先が器用だった(これは自分の作りたいものを作ることが得意であって、それだけの事だった)粘土細工というものは、作ったら壊すという繰り返しなのだが、これをやり続ける子供は周りに居なかったと思う。周りと大きく違う子供の頃の特徴だった。この趣味は小学校の低学年になると別の物と変わってしまった。
何をしていたかというと、今度は鉛筆で落書きである。話が作れないので、当時流行った漫画やらシールを模写して友達に見せていた。上手いかは別として皆が知っているキャラクターを描けば、ウケる。この事が描く力となった。
中学になると、特別成績も良くなく、バレーボール部で普通の人間だった。高校入試は、美術が好きだという事を担任が見ていてくれたので、推薦合格した。当時は絵の事を「年を取っても楽しめる趣味」だと思っていた。入試では自分の手を鉛筆、水彩で描き、提出した。

(漫画的な描写)
何とか美術科の高校に入って、通学にも慣れてきた頃、いわゆる「上手い絵」を描く同級生に遭遇した。比べると自分の絵は少々形などの表現が強引だった。これを直すのはあと10年は待たなければいけなかった。
高校一年の時に油絵具を気に入っていたので、迷わず油画科に進んだ。この油絵具もまたクセのある絵の具で、中々乾かないし、乾かないと色がぬるぬると混ざって濁る。この時にメディウムやら何やらを色々試行錯誤してみたが、あまり良い事はなく、ひび割れや描きにくいという事を経験した。おまけに油絵具は固まるとカチカチになるのでカチカチの筆を何本も持っていた。

(大学入試)
現役合格できなかった私はK塾の美術研究所に在籍していた。一年奮闘してヌルヌルのキャンバスと格闘した。この頃は周りのレベルは更に高くてまだまだ自分の描き方に自信がなかった私は死に物狂いで足掻いていた。この時の描き方にのちの絵の元になるものや力になるものがあったように思う。講評会の最高記録はB(ラージビー)でした。
N芸大の入試は石膏デッサンと着衣で花を持った女性モデルの油彩だった。死力を尽くして描いた。そして結果は・・・。補欠合格!やっと美術大学に入れた。

(中退)
美術大学は、学費が高かった。自分の絵はまだまだ「自分」が欠けていた。基礎となるデッサンもまだ甘かった。私は二年目の夏、中退した。

(自分の力を試す)
大学を辞めてそれほど経っていないある日、M新聞の販売所をジョギングの振りをして覗いた。そこに行けば生活費が稼げると思ったのだ。店長と面接して採用された。
M新聞で慣れた頃に、隣の町で一人暮らしも始めた。もちろん絵の道具を持って。
それまで完成しなかったデッサンと油彩の研究をした。当時は良くボール紙に油絵具で描いていたと思う。目標は「自分だけの絵を発見すること」テレビの上にオレンジや酒のボトルを並べて、自分なりの(セザンヌやマティス風だった)絵をひとまず満足いくように描けた。この頃には画壇に風穴を開けてやると野望に燃えていた。

(精神の変調と事故)
一度、時代を紐解いてみよう。
少年時代は昭和、高度成長やバブル景気など激動の時代、子供心にこの社会で生きていけるかと不安を強く感じて、それでもアメリカンドリームなどの成功物語に夢を見たりしていた。それから平成、青年期になると、大人との反発、自由への憧れ、又は社会や自分への絶望を背負うように生きていた。大学に進んだ頃に就職氷河期になり、不況、世紀末を過ぎて暗いムードの中で、それでも絵を描く楽しさは変わらずにそこにあった。
毎朝、一時には起きて二時ごろから新聞折込を入れる。それをカブの荷台に積んで配る。一番働いていた時で朝・夕刊を配り集金もしていて、給料は月に13万程、遊んでいたらあっという間になくなった。
或る朝に出かけようとした所、目まいが襲った。次に発汗(異常な量の)そして嘔吐である。その日はなんとか根性で配り、帰宅、しかし徐々に病気の手に蝕まれていった。
要するに、狂ったのである。言い表すのは難しく、変な妄想、へたをすると、幻覚まで襲うような、現実から遠のいていくような感覚、不快感・・・。
狂いゆく自己を止めたのは追突事故だった。
雨の朝に、いつものように販売所を出て、一本目の信号、赤で停止、青に変わったのでエンジンをひねって発信、した時、後部から衝撃、気づいたら道に横たわっていた。
我に返って立ち上がろうとしたら右ひざが立たない、笑っている。その後は店長に連絡をして救急搬送。道に散らばった新聞をアルバイトのF君が拾っていた・・・。

(夜の異変)
その後、慰謝料75万をドライバーの保険会社に貰って、アルバイトは辞め、実家に引きこもって休んでいた。インターネットでかろうじて世界と繋がって昼も夜もなく暮らしていた。何とか仕事をしようとするが、続かない。この頃が一番暗い時代だった。
ある日の夜は、マンションの屋上で下の植木を眺めたり、手首にカッターナイフを当ててみて止めたりしていた。しかしある時ついに思い付きでシルバーホワイトをテレピンで溶いてコップ一杯飲み干してしまった。すぐに腹を下し、便所が白く染まった。また病院へ行き、胃洗浄した。
その後は精神科へ行き今現在まで薬を飲み続ける事になる。情けなく迷惑をかけた。人が死のうとすることは情けなく、みじめで、恥だった。

(回復する)
どうにか薬も効いて、少し太ったが徐々に元気を取り戻した。病院のデイでは麻雀をしたりビーチボールでバレーをしたりして楽しく過ごした。
就労移行支援という場所があると聞いて通うようになった。そこでは仕事への意識が高まった。そして面接を経て某薬局の事務職に就いた。その時は頑張ったが体力が不足していて3年目に退職した。その後、A型事業所に行きそこの所長の勧めで別の就労移行へ行き、PCのスキルを高めた。その間一年間職業能力開発校へも行った。

(デザイン科)
私はデザインに関しては高校時代に一度出会っている。その頃はデザインが何なのかさっぱりだった。さっぱり評価されなかったので、さっぱりだった。
職業能力開発校は、デザインのソフトを学習したり、色彩検定を受けることができた。デザインは文字をそろえたりすることが基本だと納得した。
そして今の会社へと続いた。途中筆が重く回想できたかわからないが、何とか遡って記すことができたと思う。

(尾道へ)
自分探し、という言葉がありますが、旅は自分の人間力を試されるので丁度良いかと思います。私は就労移行を少しお休みしてネットで見た場所へと向かいました。
夜行バスで・・・。
岡山までたどり着き、夜は駅で宿は取ってない。カラオケボックスで朝まで寝れず、ぐだぐだの旅。そして朝になり尾道へ。ネットで見た場所は千光寺の麓の踏切です。実際行ってみて良かったと思える場所でした。千光寺と瀬戸内海が見える高台、そして猫も居ました。来てよかった。またいつか来よう・・・。帰りのバスは完全に寝ていました。

「最初は何もなかった。今は私が描いた絵がある。つまり、それこそが、自分への存在証明だ。」

(絵が売れた)
それから天龍峡や街や薔薇や猫などを描いて、賞もいくつか頂いた。私は色々な場所で展示もさせて頂いて、何点かの絵も売りました。そして、本当に今まで絵を描いてきて良かったと思いました。
それからは、色々な願望が叶ったこと、自分に対しての証明が果たせた事をぼんやりと実感するようになり、ふいに虚しさが襲ってきました。絵を描く意欲がなくなり、今まで積み重ねてきた事を繰り返すだけと感じ、悲しい気持ちになりました。「ここじゃない!」私は今までの画業を振り返り、捨て去り、新たな制作に挑まなければなりません。私は終わることを望んでいないからです。前に、少年が笑うような絵が描きたいと思い、それを果たすため私は再び絵筆を握ります。

~第一章 完~

第二章